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認知療法、漢方は効かない

認知療法、漢方は効かない。まやかしである。

私は、当時流行しかけていた認知療法をいち早く徹底的に勉強して、実践に応用したが効果のほどは甚だ、疑問を感じた。

① 精神疾患は、大雑把にいえば、どれもこれも脳機能のバランスの乱れであり、それが認知の歪み(思考パンターンの偏り)の修正ごときで良くなるはずはない。

② 精神的にまいっているときに、認知の歪みの修正のトレーニングなどしていれば、ストレスが増すだけだ。かえって精神症状は悪化するはずだ。

③ 認知療法の日本の第一者の大野裕氏は、雅子様の主治医を長く勤めたが結局、治せなかった。私に言わせれば、雅子様ぐらい速やかに直せねば、精神科医失格で研修医からやり直せと言いたい。

 従って、精神科治療の認知療法を中心に据えるのはナンセンスである。ただの補助治療にすぎないと私は考える。

 精神科治療の根幹とは、①的確かつ厳密な薬物治療により、原因となっている脳機能のバランスの乱れを修正するとことと②ストレス状況の改善と考える。よって、精神科医は、個々の患者さんについてこの二つの問題を十分に解析・理解し、速やかに適切なあらゆる手段を自由自在に講じれるようでないとまったく話にならない。雅子様のようになってしまう。

 大野氏は、さすがに恥じて世間に顔向けできぬかと思っていたら、未だに、認知療法の講演をやっているではないか。

 それを許している世の精神科医(もちろん教授連中が一番、馬鹿だ)や認知療法に厚く診療報酬の配分をしている厚生省の諮問機関(精神科学会の重鎮)や役人はまったくのアホだ。


 ついでに、漢方についていうと、過去に私は種々の原典まで読みあさったが、結論は精神科疾患にはまったく効かないの一言である。もちろん、他の疾患ではそうではないが。


 勿論、本音ではあるが、悪態をつくのは、このへんでやめて、バッハでも聴きながら寝ることにするか。

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最近、診療して新たに気づいたことについて

 日常、真剣に診療していれば、ありきたりの治療の中にも新たな精神科治療の工夫や改善がまだまだ存在することに気づかされることが多いことに私自身、本当に新鮮な驚きをもって感じさせられるのです。

 このようなことは、精神医学の教科書や文献には勿論、書かれてはいません。文献や講演会の案内などは製薬会社の方が頻繁に持って来られますが、内容にはざっと目をとおすこともたまにはありますが、たいていは表題だけ見ても内容がつまらないのは一目瞭然なので、製薬会社の方には本当にわるいのですが全ては即、ゴミ箱行きです。

 私は、診療やそれに伴う事務作業以外は、不肖のわが子の子育ての工夫(いかにして、この激動の社会にうまく適応していく能力や気概を身につけさせるかなど)と自分の趣味以外はしません。勉強は正直嫌いで、本業の勉強はほとんどしていません。

 最近気づいた新たな発見の一つは、双極性障害の治療についてです。
ラミクタールなどを使ってどのように気分・意欲の底上げをしても、厳密に「気分の起伏」を止めないと、長期的視点でみるとむしろ悪化して抑うつ状態が一層、目立ってくるケースが多いことに気が付きました。

 つまり、双極性障害の治療については、一応、ご本人が困らぬ程度の治療ではダメで、気分の起伏厳密なコントロールが極めて重要で、それがこの治療の要だと気付いたのです。そうしていないと、今はいいかもしれませんが、ゆくゆくは困ったことになることが多いのです。治療すれば短期的にも長期的にも改善するのが当然で、後退は許されないというのが私の持論です。一般の読者の方にとってはテクニカルには難解なので、これ以上の詳細は述べません。

 もう一つは、発達障害の重要性の再確認です

 アスペルガー障害は、診療していればすぐに気づくので、さして問題にはならないのですが。また、現在のところ、それに対する薬物治療は残念ながらないので、そのことを本人に告げる勇気もない私は意識してこの問題を素通りしたまま、他の合併症などの治療を行っています。このことは、すでに過去のブログでも述べました。

 問題は、ADHDなのです。

 私は、ADHDを自ら疑いその診断・治療を目的に受診されていない方、あるいは、休職などして本人が本当に窮地に追い込まれてはいない場合以外には、最初からADHDの診断までには深入りしないことを原則としていました。このことも、過去のブログに記述しました。

 しかし、長年診療して安定していられた方でも、予想外のトラブルに巻き込まれたりすると途端に大きく調子を崩されることがしばしばあります。この場合、今までの治療をより厳密に行っても、十分な改善が見られないことがよくあります。

 私は、小学一年生から初老期に至る方までの数千人にADHDの治療をしてきましたから、このような場合にADHDが合併していることの可能性にはすぐにピンときます。しかし、ADHDは、勘だけでは診断はできないのです。やはり、国際診断基準のDSMに基づいて丁寧に診察していかないと正しい判断はできないのです。

 前述のように突然の窮地に陥った方に十分な改善をもたらすためには、従来やっていた治療をより厳密にすることだけでは事足らず、ADHDの診断についても踏み込んでいってADHDの治療を追加することが必要なケースを、最近、立て続けに数件経験したのです。

 何しろ、ADHDは極めてありふれた発達障害ですから、むしろ当然といえば当然ですが。

 また、十分な治療をしたつもりで気分・意欲は十分に改善しているにもかかわらず、睡眠が浅くて困っている方もいたのです。この方もADHDを疑い、厳密に診断するとやはりADHDも合併していました。睡眠薬を増量するのではなく、新たにADHDの治療を開始することでこの問題も解決しました。もちろん、作業効率が増して社会適応性が改善したことは申すまでもないでしょう。

 これからは、どのような症状を訴えておられる方でも、疑わしければ最初から、ADHDの正確な診断が必須と考えるようになりました。ADHDを治療するかどうかは、本人のご希望やその時点での症状の重症度により思慮深く判断せねばなりませんが。

 ですから、発達障害が全く診断できない一般の精神科医の方は、精神科の治療は不可能だとすら思えます。例えて言えば、そのような精神科医は、片腕をもぎ取られたような状態なのです。

 精神医学の教育界が、早くこのことの重要性に気づき早期に教育システムの改善を行わないと悲劇は繰り返されるだけでしょう。

 しかし、残念ながら期待は薄いでしょう。肝心の教育層の方が発達障害は、全く理解していないのが現状なので。

パニック障害、強迫性障害?

 多くの精神科医は、過呼吸の発作やパニック様の発作があると、単純にパニック障害と診断しています。

そこにうつ状態を見つけるとうつ病とパニック障害の合併とか言い出します。お笑い種でそのような診断はありえません。

パニック障害には、気分に異常があるか否かの確認が必須なのです。パニック障害は、必ず気分は正常でなければ、そのような診断はできないのです。

もし、気分の起伏があれば、双極性障害に伴う過呼吸の発作とか不安発作と診断しなといけないのです(気分の起伏こそは、実にキーワードで後に詳述しアップするつもりです)。

実際は、このようなケースのほうが圧倒的に多いのです。私が、他院からこられた方にそのようなことを指摘すると、多くの方はあっけにとられた表情をされます。

多くの方は、このように浅はかな見識の精神科医(例え大学教授であれ)の犠牲になり、人生を台無しにされています。

なぜなら、気分の起伏あるのに長く誤診のまま放置されると、多くの場合、早晩うつ状態が前景に立ち、悪化が進行すれば労働不能の状態にすら落ちいりかねないのです。このようなケースで他院から移られて、日常生活さえままならない患者さんを私は多く見てきました。

あるいは、気分の不安定さからくる外出困難や電車などに乗れなくなったりします。このような事態に陥っても、精神科医はパニック障害に伴う広場恐怖だと得意げに誤診します。
 
 また、強迫性障害もまったく同様です。確認行為や不潔に対するこだわりがあるからといって、単純に強迫性障害と診断していけません。必ず気分に異常がないことを確認する必要があります。

 強迫性の症状があっても、気分の起伏があれば、双極性障害の上に強迫性の症状が乗っかっているとみなければなりません。実際はそのほうが、多いのです。他院からこられた多くの患者さんは、そのことを指摘しても信じません。実際に双極性障害の治療をして、よくなれてやっと納得されるのです。

 また、醜形恐怖もまったく同様です。専門用語を使って得意げな精神科医をみかけますが、同様に浅はかな診断にすぎないことが多いのです。

 日本の精神科学会にいっても、このような重要なテーマで議論されているのを見かけません。枝葉末節の議論に終始していて、私は呆気にとられそのまま地元の味自慢のラーメン屋にかけこむのです。

 こんな体験をするなら、まったく独断と偏見ですが、バッハの精神性の奥行の深さに感動する方が精神科医としての精神性や見識を養うのに適していると思います。バッハについては、かのベートーベンですら、バッハは小川(バッハのドイツ語の直訳は小川です)なく、大海だといったほどですから。あるは、モーツァルトのオペラの軽妙なタッチの流れに、かいま見られる人情の機微の表現の絶妙さやこの上ない優美なアリア、そこはかない憂いの表現などに触れることを私はお勧め致します。

 このような言い訳をして、私は学生時代からすでに学会をサボりまくって、バッハを聞きながらうたた寝ばかりしています。

ある読者のコメントについて、私が考え、気づいたこと

 先日、もう何年も前に育児のしんどさから当院の受診し、最近になってようやく子供の発達障害がわかった方が、当時、「母親の育児の悩みの向こうに、子供の発達障害の疑いを持とうともしない」ようにみえる精神科医が、ADHDに関するブログを書いることに対するご批判のメールを頂戴しましたので、私の返答をADHDなどの発達障害の治療に対する私の見解を含めて修正加筆して書いてみました。

「こんばんは
不快な思いを、させて申し訳ありません。
ただあなたにも、誤解はあります。

 私は、今は克服していますが大病を患い、2度も休診しています。
その間の死の淵に立ったような大きな苦しみから、人生観、治療態度も大きく変わったと思っています。
「もう何年も前」の受診なら、その基準で今の私を判断されるのは、如何とは思います。
自己改革の意識を持ち続ければ、人は、かなり変わるものと思います。

 このことは、特にADHDの治療を受けられる方にも大切だと私は常に強調しています。
「コンサータ(ストラテラ」は、単に一時的に注意力を高め、社会適応性を改善するために使用するのではない。
持続的に薬を使うことによって、今まで空回りしていた努力を着実なものにし、視野を広げ自己改革、自身の向上を助けるものなのです。いずれは、卒業するべき時がこなければならないお薬なのです。この辞め時の基準は、コンサータを使用してしなくても同等の状態を維持できるようになる時期です。ですから、何時まで飲まなけばいけないかというご質問には、ご自身の自己改革の意識の持ちようによって大きく変わるものだ。」と口癖のようにいっています。

 また、ADHDは、きちんと国際診断基準であるDSMに基づいて診察してみないとわかりません。また、6歳未満の診断は無理です。発達障害が自閉症スペクトラムなら、もっと慎重を期さねばなりません。軽々しく憶測で口にするようなことでは決してありません。

 社会適応のの問題など発達障害を疑っておられて自らが来院されておらず、単なる「悩み相談」では、初診では発達障害の問題までは通常深入りしません。何度もご本人が通院して頂ければ、そういう問題にも気が付いて、希望されれば治療することもありますが。

 もちろん診察内容は、全く覚えていません。しかし、「母親の育児の悩みの向こうに、子供の発達障害の疑いを持とうともしない」といわれますが、子供さんの診察もせず、初診だけではそこまでは深り入りしないのが常識かと思います。そのようなことを憶測でものを言えば、疑心暗鬼に囚われてかえって不安定になって子育てがよけいにうまくいかなくなるだけなのです。ご自身も、最近になってようやく子供の発達障害がわかってきたといわれてますが、まさにそういうものなのです。親御さんが、子供の発達障害を受け入れる心の用意が整ってこそ、この問題への対処も可能になるのです。発達障害を見て欲しい、当院はADHDしかみておりませんが、と言われてお子さんを連れて受診されて、診断結果を伝えても納得されず、他の医療機関でも診断して頂きたい希望されることもあります。そのような場合は、まだそれを受け入れる心の準備が御両親にないのだと受け止め、それ以上は深入りを避けるのです。

このように発達障害は誠に微妙な問題なのです。自ら発達障害を疑われて受診されても、診察結果をストレートに伝えると傷つかれる場合も多いので表現に神経を使うものです。子供を診させていただいても、ご両親に本人に告知すべきかを相談し、ご本人には薬を使用する理由は説明しても診断名は伏せるのが普通です。それほど配慮が必要なことなのです。

 また、治療中に、アスペルガー障害の存在には気が付くこともよくありますが、本人がそのことを告げられることを望んでいないないと思えする場合は、意識してこのことを素通りしたまま診療を続けています。

 このような視点を重視して、発達障害は治療されるべきだと私は考えます。」

ブログの副作用

最初から、断っておきますが、私が、このようなブログを書いているのは、自分があたかも極めて優れているかのような錯覚に陥って他者を批判しているわけではもちろんありません。

 私は、良くならない方にはあらゆる知恵を絞って最適な解決を模索はしてきましたが、正直に申しまして過去には明らかな初歩的はミスも重ね、現在でも残念ながら初診から診ているにもかかわらず、社会復帰もできない方が、数名はおられます。本当に、心痛む思いです。

 私がこのようなブログを書いているのは、世の中の精神科医があまりにも安易に流れすぎていると思えるので、強い懸念を感じているからです。

 読者の方は、私がこのブログを当然、読者のために書いていると思っていられるでしょう?

 しかし、私は少しひねくれたところがあって、むしろ他の精神科医のために書いているのです。私のブログは多少は読まれているようなので、自分の治療に疑問を感じられた方の中には、主治医にこのような意見がありますよという方もいるかと思うのです。

 たいていの精神科医は、実はあまり賢明でもない(過去に何度も私は、「主治医より患者さんの方が賢い」といっています)のに精神医学にあいまいなところが多いこともあって、自分の診断、治療こそが正しいと信じきっています。たぶんそういう方は、権威のない一介の町医者の書いたものだと気にもとめないでしょうが、中には、ごく少数とは思いますが私の意見を参考にしてくれる方もいるのではないかと考えているのです。

 話が、かなり横道にそれました。

 実は、私はこのブログを書くことの副作用を実感するようになりました。

 このようなブログのためか、私のところには近畿全域はもとより、それより遠方の方からもこられるようになったのです。中には、そのような方でも、定期的に通院してくださる方もいますが、たいては少しめどがたつと地元に帰っていかれます。

 最初は、それもよしかとしていましたが、思わぬ盲点があったのです。

 たいての方は、私には何も言われず去っていかれます。そんなものだと思っていましたが、中には少数ながら近くの精神科に行きたいので紹介状を書いてくれといわれます。そんな場合でも、ほとんどは返事がないか返事があってもごく儀礼的あいさつ程度のことを書いてあるのが普通です。

 ところがごく少数、ご自身の診察の所見や処方内容まで書いてくださる方がいたのです。その内容が、私の治療とは全く異なっていてまったくの彼流なのです。

 その方に悪気はないとは思いますが、問題は私の治療で多少なりともよくなったことを少しも参考にしていただけてないことです。ああ、これでこの患者さんの人生も終わったな、多少大げさかもしれませんが、そんな気分にさせられました。

 患者さんの住まいの近くに転院されても、たいていはこういうことになるのかと分かったのです。もちろん、私の治療が最適でない場合も多いでしょうから、むしろよくなる方もおられるでしょうが。

 それでも、このような私の診療態度は大いに問題ありかと思い知らされました。

またか!

 先日、過去のブログでも書いた奈良県の某大学病院に通院中に方が、怒って当院に来院されました、

 患者さんは、自ら発達障害を疑っておられて、その病院で幾多の心理検査も受けられたそうです、
 しかし、初診から主治医には「大人の発達障害はない。子供の病気だ。」といわれたそうです。そして、検査の結果は、「一ミリも発達障害はない」と断言されたそうです。

 自ら、投薬内容をみせられましたが、統合失調症に使う薬(患者さんもそのことをご存じで、こんなのが効くはずがないと怒っておられました。まったくそのとおりです。)投薬内容は、場当たり的に、ランダムに通院のたびごとに変更されていて脈絡がまったくつかめず、あきれて途中で見るのをやめました。

 私は、入室された時からこの方は、発達障害はともかく気分障害があるとすぐに分かりました。実際少し聞くと紛れもない双極性障害でした、こんなこともわからないの?本当にびっくりしました。

 診察を進めていくと患者さんが懸念されたとおり、確かにADHDも存在しました。

 主治医より患者さんの方が賢い。過去のブログでもこのように書きましたが、またかという感じです。

 この大学病院は、いったいどうなっているのでしょうね

僕がうつ病を、すぐに直せる訳

私は、うつ病は一ケ月もあれば、治るものだと以前からいいきっています。

なかには、難治性うつ病の方もおられますが、わずか1%未満です。難治性うつ病といえども一定の改善はします。
 
 「大切な家族をうつ病で失わないために」あるいは、『○○の薬を使ったら、入院率・自殺率が明らかに減りました」といった類の講演会、フォーラムの主催を製薬会社のMRの方が持って来たりします。このようなことを言っている演者(精神科医)を見かけたら「僕は治療が全くダメです」と言っているのに等しいので近づかない方が安全です。いや近づくと極めて危険です!

 なぜなら、治療を受けていてうつ病で自殺や入院治療など、よほどの特殊な事情がないかぎり、およそ私にはイメージできないからです。だからそんなごく例外的ななことはテーマにはならないのです。そもそも、うつ病の治療はシンプルすぎてまったく話題にしなのが普通の感覚だと思います。

 うつ病は、すべからく素早く完全に直して(すっかり元の生活レベルに戻ること)、まともな精神科医の初歩的な条件の一つをクリアできていると私は考えます。「うつ病で治療を受けて10年にもなりますが、悪くなる一方です」といわれて遠方から受診される方もいますが論外の治療というしかないでしょう。

 前段が長くなりましたが、本題に移りましょう。

 「僕がうつ病を、すぐに直せる理由」、それは簡単なことです。僕がうつ病でないことをすぐに判断するからなのです。

 すなわち僕が、もしうつ病と判断して2週間、治療して一定の改善を見なければ、すぐにうつ病でないと考え直すからです。以下、簡単な例を示して説明しましょう。

 ある男性の方が、2,3か月まえから憂うつで仕事にも差し支えると言って来院されたとしましょう。もちろん仕事の内容やストレス状況を把握したのちに、気分は朝が一番憂うつで、夕方頃にましになることを確認して(うつ病でもこのような日内変動が目立たない場合もありますが、パターンが逆ならそれだけで決してうつ病でないと断言できるのです。)気分の起伏がないかも、確認します。うつ病なら気分の起伏はほとんどないはずです。

 このようなことを、精査したうえ一錠でも十分効くレクサプロのみを例によって処方して2週間後に来診してくださいと言います。もちろん、薬が自分に合っていないと感じたら電話で連絡して相談するように申し添えます。

 2週間後の来院後、話を聞きますと効果があいまいで、どうも私が期待していたようには改善していません。

 そこで、もう一度聞き直します。「2,3か月前に気分は、ゆっくり落ちたのかそれともストーンと急速に落ちたのか?」と。答えは「ストーンと落ちた」ということでした。それで、不覚にも自分が誤診したことに気づくのです。

 なぜなら、うつ病なら気分はゆっくり落ちていくはずで決して急速に落ちたりはしないのです。

 続けて。聞きます。「ストーンと気分が落ちたのならその前はどうだったのか?」と。答えは、「きわめて元気でバリバリ仕事していました。-------------」。どうも、気分が落ちる前は軽そう状態だったようです。診断は、双極性障害に訂正して、治療も当然変更します。当然、それ以前の様子もききますが、答えはよく覚えていませんとあいまいなままですが、診断は変えません。

 その後は、よくなったのは当然なので述べません。

 素早く、君子豹変するのが大切なのです。

10年も、うつ病と誤診したまま、患者さんの状態が悪くなる一方なのに、平然としている精神科医は結構多いのです。そのような医者の合言葉は「もう少し、様子を見てみましょう」です。くれぐれもご注意ください。大切な一生を台無しにしないために。

 私は。このような治療を平然としている精神科医自身の精神状態の方を常々、疑問視しており、一度ご自身がまともな精神科医(実は、稀)に診てもらったら方がいいのではとお勧めしたい気持ちでいっぱいです。

 いつもながらの、うたた寝しながらの辛口で閉めさせていただきます。

軽い躁うつ病の波の軽視できない怖さ

感情の起伏を、誰にも波があると軽く考えていると、大変なことになっていうこともあります。このようなケースをこの頃、よく経験します。いわゆる喜怒哀楽は誰にもありますが、振幅の大きさを他者から指摘されるようでは、要注意です。それは、双極性障害かもしれないからです。
 いわゆる喜怒哀楽と双極性性障害の波の違いを簡潔に述べてみましょう

・冒頭にも述べましたが、起伏の幅や、振幅のめまぐるしい交代、自分のことは案外わかりませんが他者から、このことを指摘されるなら要注意です。
・調子が比較的よい日、悪い日が比較的ランダムにあるのは、かなり危険です。その振幅の差に悩むなら、ほぼ双極性性障害といえます。
・急に、些細なことでも気分がストーンと落ちるのは、危険な兆候です。その深さが、「自分の存在を消してしまいたい。」、「生きていてもいいことがない。」と考えるほどならかなり深刻な状態です。
 もちろん、死にたくなるようでは、異常な沈みといえます。
・人から、ハイテンションの時があると指摘されるようでは、危険極まりないです
・比較的調子のよい時期と、社会生活・日常生活に支障をきたすような波が、周期的に繰り返すのは、それだけで双極性性障害とほぼ断言できます。

 問題は、このような波がただ単に繰り返しているだけではなく、たいていは、経過ともに次第にうつ状態が目立ってくることです。
 また、大きなストレスを抱え込むような事態になる(イベント)と、急速にうつ状態に傾くことが往々にしてあるということです。

 典型的な例を示してみましょう。何もするのもおっくうで、ほとんど寝たきりのような生活をしていると、両親に連れ来られた方がいるとしましょう。
 気分の波は、ありません。只々うつ状態だけです。
 そこで、いろんな精神科医にあったても、みな一様にうつ病ですといいますが、どのようなうつ病の治療をおこなっても全然改せぬばかりか、抗鬱剤の副作用で20kg以上も太ってしまいました。

 そこで私は、かなり詳細に経過を聞きます。
よくよく、繰り返し聞くと、かなり以前には軽い気分の波があって、大きなトラブルにあってから、うつ状態のみになり、無策のまま長年経過してうつ状態は悪化の一途をたどり今や寝たきりに近いとのことです。
 私のところには、このような相談で、遠方からも頻繁に見えられます。
 
残念ながら、このような実態を知っている精神科医、それを直すテクニックがある医師は、今までの経験では皆無に近いのです。(教科書に記載がないからでしょう。彼らは多少の学校秀才であって、教科書の内容を効率よく吸収する能力はあったかもしれませんが、真実を探求する意慾・能力に欠けていると言わざるを言えません)

いつも辛口発言で申し訳ありません。そんなため、私はこよなく愛するバッハを聞いてうたた寝していることもできず、疲労困憊して患者様にも迷惑をかけてすまない思いでいっぱいです。


躁鬱の波の怖さ

発達障害が診断できない大学の精神科医

発達障害は、精神科領域でベースになる概念だと思います。
そのうえで、種々の精神病について学ぶべきではないかと私は思います。
そうでなければ、人間の精神的な変調を包括的・立体的に理解できないと思うからです

 簡単な例をあげてみましょう。
会社でうまくいかず、気分も不安定になって精神科を受診したのです。
このような時、適応障害と診断されることが多くあります。
医師は、一応診断をつけたので妙に自分を納得させてしまっています。
ところが、患者さんの方は、通院しても一向によくならなし、何かぴんと来ないものがある。そこで、自分で調べたり友達に聞いたりして、比較的軽度であっても自分は発達障害ではないかと考え、私のところに受診しにくる。
 何のことはない、患者さんの方が主治医より利口で、適応障害の理由は発達障害があるからなのです
 わたしは、「あなたの主治医のほうが、精神科医としての適応障害ですよ」と言いたくなるが抑えています。
 当院ではこのような笑えないことが、本当に毎日のようにそれも複数あるのです。

 私もそうですが、いわゆる町医者ならそれも仕方ないかと思います。精神科の教育界がダメなだけで、本人の罪は軽いかもしれないと思うからです。
 しかし、困ったことに大学病院も似たようなレベルなのです

 ある銀行マンで仕事にミスが多く、要領も悪いので上司に叱られてばかりで、気分にも変調をきたし、自分もADHDかもしれないと考え遠方から私のところにやってこられました。

 私は、すぐさま中等度以上のADHDで、軽い双極性障害も合併していると診断し、精神的不調も改善させ、幸いストラテラも効きADHDからくる不適応も改善し、本人も好調だと納得され、喜んでおられるようになりました。

 しかし、上司からは君は本当にADHDなのか、大学病院でも一回調べてもらえと命じられたようで、奈良県の某大学病院を受診されました。

 その大学の先生から、ADHDらしい所見は全然見られない。これからいろいろ検査するが初診時の様子や経過を報告してくれと、上から目線の手紙が来たのです。

  正直ムッとしたのも事実ですが、ボーダーならいざ知らず、中等度以上のADHDも理解できなのかとあきれはててしまいました。

 そこでこのような、皮肉たっぷりな返事を返しました。
「そもそもADHDは、心理検査で診断するのではなく、多少の治療経験のある医師が国際診断基準であるDSM-Ⅳ(今はⅤがでていますが)を用いて診断するものですよ。そうすれば、非常に正確に診断できます。
そのうえ、この方はADHDの治療薬が非常によく効いたのでADHDの診断はすでに確定済みです。」と。
 失礼ながらまるで、幼稚園児に対する返答になってしまいました。

 このような、精神医学の骨格となるような発達障害のことも普通の精神科医は全く無知なので主治医の診断は参考程度にしておいて、治療結果次第で判断するしかないかもしれませんね。

「少量投薬主義」は、ほんとうに正しいのか?

「お薬は少量しか投薬しません」というのを、うたい文句にしている精神科クリニックが、目立つように思います。

 一見、耳触りの良い表現ですが、しかしこの「少量投薬主義」は本当に正しいのでしょうか?

 確かに、薬に抵抗があり、多くの薬を飲むのを嫌う方も多いのが実情で、このような要望をお持ちの方には、私はその意向に沿うことにしています。

 また、「少量投薬主義」は、医師にとってもリスクが少なく、本音ではその方が気楽です。

 しかし、「何とかよくなって十分に社会に適応したい」、または、「再発、休職の繰り返しはごめんだ」と考える方も多いと思います。万年「少量投薬主義」でやっている医者は腰が引けていると思います。
 少し、きつめの表現をすると、本当にその人の人生に対する医師としての責任を痛感しているなら、万年「少量投薬主義」はあり得ないと思います。

 私は、その患者さんにとって「必要かつ最小限」の量の投薬を試みるのが、医者の技術であり使命だと考えています。もちろん、不要な薬は一切出してはいけません。その人に気休めになるなら、当面は仕方ないかもしれませんが。

 わたしは、自分の見識をもったうえで患者さんのニーズにもあわせていくのが、本当の医者ではないかと思います。そのためには、医者は自ら患者さんとリスクにもきちんと向き合う覚悟が必要だと思います。
 もちろんリスクが、表面化しそうな時には素早く手を打てる技術があってのうえの話ですが。

 私自身は、医者は本来、患者さんをベストの状態にしようと自分の経験・技術からあらゆる知恵をしぼり、あるときには、リスクの程度を十分に患者さんに説明したうえで患者さんも納得すれば、十分な注意をはらいつつもリスクに対して責任を積極的にもたねばならぬときが医師には常々あり、そのことが患者さんの人生のターニングポイントになることが少なからずあると思っています。
 そのような経験も十分にしたつもりではあります。

 私のところには、このようなブログ書いているためか、遠方からも治らないので見てほしいと、自分の主治医の処方内容を持ってこらえる方が、大勢こられます。

 たまには、なかなか苦労されているなと主治医に同情することもありますが、たいていはずさんで驚くような処方であったりします。
また、安易な「少量投薬主義」で患者さんは何の改善も感じていられないのに平然としていられる方も多くいて、私の方がその主治医に対して怒りを抑えられないようなケースも多いのです。
 そのような主治医に限って余計な毒にも薬にならない「薬」をたっぷり出しているのです。
 その代表が、精神安定剤(マイナー・トランキライザー)です。この薬は、即効性があり、不安が強い急性期や不安発作・パニック発作には有用ですが、漫然と投与するべきものではないと、特に欧米の教科書にきちんと書かれており、私もそのような使い方しかしません。

 話が、批判的で抽象的になりすぎたきらいありますから、一つだけ具体例を出して話をしめくくらせてください。

 前にも述べましが、うつ病を再発させないコツは、十分な服薬期間も重要ですが、すっかり元に戻ったという感覚がもてる必要な十分量の抗うつ薬をだすのがよいのです。
 もちろん必要十分にして、それ以上はオーバーしない量です。
 小生ブログ、うつ病の治療では、残遺症状をなくする治療上の工夫が大切ですを参照ください。
 最後に、万年「少量投薬主義」の主治医を持たれた方は、十分に注意してください。
プロフィール

中尾純治

Author:中尾純治
大阪府、高槻市の心療内科・精神科のなかおクリニックの院長です。暇な時間帯は、横になって音楽を聞いて過ごす(うたた寝?)のが日課になっています。患者さんに「先生はどのように過ごして、ストレスを管理していますか?」とよく質問されますが、これが私のストレス対処法です。詳しくは、このブログをみてください。

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